天使の眼差し







 その晩、少女は初めて涙を流した。
 それを見て、喜んでくれた人がいた。
 悔しかったのは、それが悲しみの笑顔に伝っていたこと。

 ――どうせ最初で最後なんだから
 嬉しい涙を、見てほしかった――

 それこそが、自分にさえ偽ることのない真実の心。

「悲みの涙と、喜びの涙の種類は、まるで別物なんだよ」
 喜んでくれた人は、少女にそう語った。そう教えてくれた。
 たった一人の家族である兄だ。
 自分の命が消えゆくというのに、そんな風に。
「悲しみの涙は滲み、喜びの涙は溢れる。伝うのが悲しみ、零れるのが喜びだ」
 終幕がすぐそこに迫っていて、だから悔しかった。
 最初で最後の涙が、そっと伝っていたのだから。

 私も涙を流せたよ、と。
 笑顔だったはずなのに、その涙の種類は――

◆

 早朝か、暮れか。
 彼が目を覚ましたのは、そんな空模様。
 分厚い雲が陽を阻み、灰色の朝を人々に与えていた。
 そう、彼は変わらず、朝に目を覚ましたのだ。
「…………」
 その空に親でも殺されたのか。彼の目は忌むような鋭さ。
「……雪か」
 呟いた。それは意味のない戯れ言だ。
 夏の終わり。
 彼が暗鬱に目を覚ましたのは、その季節。
「分かってるよ。……ちっ」
 それは前兆の現れ。
 彼は起き上がり、覗いていた窓を蹴り割った。
 振り乱れた長い黒髪を鬱陶しそうに払い、そこから外に出る。
 鴉と、蛍。
 彼の髪は鴉のように漆黒で、残酷なまでに美しく――雪と紛うその光は、蛍のように、ゆらり。
 見るものの言葉を奪うほど、それは幻想的な在り方。
「ま、見えないんだけどな。けっ」
 そう、その美しき有り様を、けれど誰も目にすることはない。
 彼はいないし、光は降っていない。
 さりとて、彼の存在を誰もが知っている。
 知っていて、信じられてはいないもの。
 天使。
 人間たちが、あるいはそれ以外のものたちが、そう呼ぶ存在。
 彼――その呼称には、しかしまだ幼すぎるきらいもある。
 彼はまだ、少年なのだ。十にも満たない、小さな、わずかな存在。
 幼すぎて、未熟すぎる。
「つーか、まだ天使ですらねーよ」
 皮肉な笑みを浮かべ、翼のない背中に意識を向けた。
 空を自由に、なんてほど遠い。子供の歩幅で歩くのが精一杯だ。
「いい加減、僕も後がない。これを逃したら、本格的に……」
 言い掛けて、縁起でもない、と自分を律した。
「いいさ。これで決めればいい。――決めて、僕みたいな奴を虐める側に回ってやる」

『天使の使い』
 それが彼の肩書きであり、役職。
 彼が今回の『使い』をこなせば、晴れて天使の仲間入りだ。
『天使の使い』から『天の使い』、すなわち『天使』へ。
 天の使い――その先へはまだ、途方もない道のりだけれど。
「『天使の使い』、『天使』、『天の住人』、『天の奉仕者』……あと何だっけ」
 神は遠いな。
 吐き捨てて、彼はその双眸に捉える。
 使いの先となる、その女を。

◆

 これは彼が天使へ至る、道中の一幕だ。
 故にそれ以上のことは何もない。
 天使になってからの煩悶もなければ、天界の様子が語られることもない。
 極めて醜く、際限なく人間らしい、幻想の欠片もない出来事。その一片だけを切り取った、酷く不快なだけの話だ。
 この醜悪なできごとに、あくまでも教訓を見い出そうというのなら、
『天使はかくも穢れ、使いは愚かに踊る』
 ということだ。

 しかして、この教訓の本質。
 それは、救い難い人間世界のそれと、まったく同一のそれだ。

◆

『天使の特権』
 それはひとえに『赦し』に値するもの。
 人間という存在の、上位に位置する概念。
 人間の作り上げた規律や法、その一切を凌駕するもの。
 当然と言える。だから、彼らは人間ではないのだ。下位の存在である人間――そんな生き物が作った規律に従う道理はない。
 あるいはそれを逃れるために、人は天使になる。
 天使になるために、天使の使いを全うする。

『天使は使いの者に試練を与え、それを見護る』
 天使になって、初めに与えられる役割がそれだ。
『天使の使い』から『天使』に昇華したあとの、最初の仕事。
 そこは、境界。
 お互いに接しあいながら、けれどもその存在は雲泥の差。
 あるいは、天と地の差。
『天使の使い』は『天使』の言うことを、ただ実行するのみ。
 そこには何の疑いもなく、ただの一度も叛意を見せることはない。
『天使の言葉は絶対で、間違いなんてあるはずもない』
 それが『天使の使い』が覚える、最初の事実である。
 否、正しさや間違いなど、取るに足りない。

 そこに罪は存在しない。
 赦し。そして免罪。
 それこそが天使の、もっとも有用な特権の一つ。
 もっとも醜悪な、天界の論理。
 お気づきの通り、天使なんてろくなものじゃない。
 人間が作り出した、理想の固まりと言える天使――それらとは、まるで別の存在。
 名前が同じなだけの、無関係の概念。そう言ってもいい。
 彼我にとって天使とは、同音異義語である。
 故に、よく知りもしないのに、願うべきでないのだ。
 天使にも、もちろん神にも。

◆

 そして今日も、天使は見護る。
 天使の使いの、その働きを。
 ただただ、見護る。

「よう、姉ちゃん」
 彼が声をかけたのは、放心のうちに座り込んでいる女性。
 明けて間もない空は、変わらずに陽を遮っている。停滞した空気が、時間の流れを忘れさせるようだった。
「殺したのか?」
 彼女は振り返り、少年の姿を認めた。
 今このときだけ、彼女にだけ見える少年を。
「……殺した」
 場所は高層マンションの一室。
 彼は正確な階数を数えなかったが、最上階に近かった。
 ベランダへの窓は開け放たれていて、見える灰色の街並みは、けれども明るさを感じさせた。部屋に明かりがなかったからだ。
 薄暗い外より、よほど仄暗い部屋。
 そんな外界よりもさらに淀んだ、眩暈のするような空気。
 霧散し、それでもなお残る殺気。
 鼻をつく死の匂い。
「どうして殺した?」
 彼の問いかけに、女性は答えない。答えられるほどの正気が残っていないのだ。
 彼は質問を変える。
「どうやって殺した?」
 彼女の手には、血みどろの包丁。握っていると言えるほど積極的でもない。開いた手のひらに置かれているだけの冷たい凶器だ。
 彼女がいて、包丁があって、傍らに別の女が倒れている。
 彼がこの問いを向けたのは、決して分かり切った回答を求めたからではない。
 本当に分からなかったからだ。
 天使の使いである彼は、しかしその死因を推し量れなかった。
 開いたベランダへの窓。手にした包丁。
「……わからない」
 遺体の首に絡みついた鎖。割れた硝子の灰皿。薬品の空き瓶。
 いったいどの段階で、女は絶命したのか。
 使われていないのはベランダだけである。
「よっぽど恨みがあったんだろ? 怖いね、女の恨みって奴は」
「違う!」
 ここで初めて、彼女は感情を見せた。激情と言ってもいい。
 それは色濃く、際限なく人間らしいもの。
「私はこの子を恨んでなんかない!」
 叫びに近い声を上げ、彼女は亡失していた自分という人格を取り戻した。
 彼女は何時間、そうしていたのだろう。床の血液は乾き、女だった遺体から溢れる血はもうない。
「殺したくなんてなかった!」
 携帯電話のように手にしていた包丁を投げ捨て、彼女は彼に縋った。
 求めたのは理解か、同情か。
 それとも、助けだったのか。
 赦し、か。
「だがな、お姉ちゃん。これだけ殺す準備をしておいて、殺したくなかったと言われても」
「本当! 本当なの! 信じて! 私はこの子を……!」
 知っているとも。
 彼は内心、そう呟いただろう。
 彼女はこの女のことなんて殺したくなかった。だから彼はここにいるのだから。

◆

『冤罪』
 免罪ではなく、冤罪。
 今回の件で、もっとも近しい罪の名前。
 彼女は女を殺した。けれど、殺していなかった。
 彼女が殺したかったのは、あの女では、なかったのだ。
 だから、冤罪。
 彼女は罰するつもりで、あるいは処するつもりで、その女を殺した。
 殺したかった女ではない女を、殺してしまった。
 罪のない人間への、罰。

 夜、戻ってきた女を、暗がりで殺した。
 殺し始めた。
 彼女本人でさえ、いつの段階で殺したのか分かっていない。
 ただ最後に、ベランダから突き落とそうとしたところで、彼女の死に気がついたのだ。
 窓を開けて、月明かりに照らされた死に顔を見て、やっとのこと。
 気付いた。
 もう死んでいるし――あの女じゃ、なかった。

◆

 それが彼女の犯した一連の罪。
 帰ってくるはずだった女を殺した――彼女はそのつもりだった。
 その女が別の女だと気付いたのは、全部終わったあとだった。
 全部。
「……どうすればいいの?」
 天使――の使いへの告発を終えた彼女は、次にそう尋ねた。
「許されない……よね」
 許されるはずなどない。彼女はそう理解している。
 許されも、赦されも、しない。
 彼女は天使でもないのだから。
「許されない。……が、償うことはできる」
 彼は言った。
 それは呪文のように彼女の心に浸透した。
 浸透して、浸食した。
 蝕んだ。
「どうすればいい?」
 同じ問いを、彼女は何度も繰り返す。
「天使になってしまえばいい」
 彼女は虚を突かれて、表情を失った。
 何を言っている、という思考の停止。
「天使になれば、全部許される――赦される。今回の件だけじゃない。今まで犯してきた大小さまざまな罪が、帳消しになる」
 存在が昇華するんだ。人間として犯した罪など、まるで取るに足りない存在へ――
 それは悪魔のように誘惑的な言葉だった。
「かく言う僕もその途中でね。現在、天使から与えられた仕事をこなしている途中さ」
「仕事って……」
「『救済』だ。救済っつったら天使の仕事だろ?」
 救済、とその言葉を咀嚼する。
 何度も呟いて、分かりやすい理解を求める。
 救済。
 救済。
 救済。
 繰り返されるその言葉は、呪いのようで。
「ま、楽じゃねえけどな。特に僕みたいな不真面目野郎は苦労するぜ」
「天使って、いるの?」
 彼女はここに至って、そんな質問をした。
 根本的で、まず最初にするべき問いかけ。
「ああ、いるぜ。すぐそこにいる。いつでも僕のことを見護ってる。……いや、護ってはくれないか。ただ見てるだけだ。僕が天使にふ
さわしい働きをしているかどうか、ってな」
 さて、と彼は仕切り直す。
「なあ、姿を見せてやれよ。百聞は一見に如かず、だろ?」
 言って、彼は背後を振り返った。
 振り返って――姿を現した私を見た。

◆

 ――錯乱した彼女がベランダから飛び降りるまで、止める暇は一瞬たりともなかった。
 彼はただ驚いて、地上の彼女と私を交互に見る。
「……なんだ? どういうことだ?」
 ――彼は、私に問いかける。
 部屋に痛いほどの光が射し込んできた。
 雲が晴れ、太陽が惨憺たる部屋を明瞭にする。
 あるのは、女の死体。
 それから『天使の使い』の彼。
 そして、姿を露わにした『天使』の私。
「天使を見て逃げる奴なんて、初めて見たぞ。驚くだけならともかく、あんな風に……」
 人間は、天使のその神々しさに、心を惹かれる。けれども彼女は、その限りでなかった。
 そうならなければよかったのにと、願っていたのだが。
 もちろん、神様ではないなにかに。
「あ」
 と彼は気付く。
「知り合いだったのか?」
 そう。私と彼女は、古くからの知り合いだ。
 彼女と、ここで遺体と化しているこの女は。
「…………」
 この遺体の女に復讐するために、私は天使になった。
 もう十年も前のことで――
 ちょうど、彼ぐらいの歳のことだった。
 飛び降りた彼女は、完全なる巻き添えになってしまったが。
「じゃあもしかして、この女をこの部屋に……」
 彼はすべてを察したが、
「……いいや。何も聞かねえよ。やっぱり怖いね、女の恨みって奴は」
 と呆れて笑った。
「それに」
 ――天使に罪はない。
 彼はそう言った。
 誰も異を唱えることのない、天界の理を。
「いいなー、天使。僕も早くなりたいぜ」
 はあ、とソファに腰を下ろした。
 どうやらしばらく、ここを住処と定めるらしい。
「次の救済、いつになるんだろうな……」
 彼は途方に暮れる。
 私はそんな姿を、また見護るだけだ。

 ◆

 そこに罪は存在しない。
 赦し。そして免罪。
 それこそが天使の、もっとも有用な特権の一つ。
 もっとも醜悪な、天界の論理。
 お気づきの通り、天使なんてろくなものじゃない。

◆

 天使はかくも穢れ、使いは愚かに踊る。




あとがき
・三人称を書きたかった(書くとは言っていない)
・こういう文体難しいからもうやらないわよ
・『天使の視点』というタイトルでもよかったけど、いろんな度胸が足りなかった……
・お読みいただきありがとうございます

INDEX

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